【3分】デカルトの「方法序説」をわかりやすく要約・解説

哲学を始めよう

学生の頃にサルトルやカミュ、ドストエフスキー、トルストイといった文学を読んで感銘を受け、物語だけを捉え、本質を理解できていないことを理解しながらも名著を読んだと満足していました。脱線しますが、こうした考え方はソクラテスの「無知の知」ともいえます。

しかし、だんだんと名著を読み進むにあたり、哲学を知っていた方がより文学も楽しめるのではないかと考えるようになりました。そうして、いざ、まずは古代ギリシア哲学だとかを何となく思い読んでみるとさっぱりでした。

時代を選ばず、とにかく哲学に関する本をよくわからないまま読んでいくと、名前を多く目にするのはデカルトでした。

つまりは現代哲学においてデカルトが哲学の礎となっています。そのはじめの一歩が「方法序説」です。

※本コンテンツの引用は特注がない限り「方法序説」(谷川多佳子訳、岩波文庫)より。画像はフリーと自撮り写真。

「我思う、故に我在り」(コギト・エル・ゴスム)

哲学を学びたいけれど難しいだろうなと考えることは既に哲学です。そういう考えは疑って捨て去ってしまいましょう。

それが有名な「我思う、故に我在り」(ラテン語: cogito ergo sum)です。

フランスの哲学者であるルネ・デカルト( René Descartes,1596~1650)が著した「方法序説」(Discours de la méthode,1637)は哲学を始める際の最良の一冊です。

そんなにも厚い本でもないので、サラッと読める哲学です。加えて、「方法序説」はデカルト自身の生き方も記されていて人文学にも近い感じです。

それは夏目漱石の文学に近いです。

夏目漱石が敬愛したデカルト

いきなり、夏目漱石の話題と思われるかもしれませんが、知っていて損はない四方山話です。

おそらく「方法序説」を初めて読まれる方は読みやすいと感じるでしょう。

夏目漱石の著書とどことなく似ているからです。夏目漱石は「吾輩は猫である」であるデカルトについて著しています。

 

デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分かる様な真理を考えだすのに十何年懸かったそうだ。

※引用: 「吾輩は猫である」(青空文庫)https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.htm

夏目漱石はデカルトのことを敬愛しており、心情を吐露する手法をデカルトから学んだと想像します。

従って、夏目漱石の著書がデカルトの「方法序説」に似ているのでしょう。厭世的な点もです。当時のデカルトは地動説を唱えて裁判にかけられたガリレオ・ガリレイを憂い、若干、やさぐれています。

以上も踏まえて「方法序説」を読むのも一興です。

そうだったのか……だから僕の名前は「コギト」か!
そうだったの!?

「方法序説」(ルネ・デカルト)

「方法序説」は……

「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話『方法序説』。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学」( Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.)

という著書の序説の部分です。本論である屈折光学、気象学、幾何学については分厚い書物です。

序説のみでデカルトは私たちに考え方を説明し、自らの生き方までも語っています。

ちょっとした前置きののち、以下の一文より「方法序説」は開始されます。

「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」

デカルトの示す「良識」とは「理性」であり、物事を正しく判断し真と偽を識別する能力であり、「神」から与えられた「自然の光」のことです。

「方法的懐疑」

「方法序説」において第一に説かれているのは「方法的懐疑」です。「我思う、故に我在り」が導き出されています。哲学の第一原理としました。

「方法的懐疑」の考え方は以下のとおりです。

  • 不明な点が一切なく、確信を持って説明ができること以外は疑う。(例)宇宙、地球、大気、動物、人間……。
  • 自分自身の身体も、どう機能しているか不明のため疑う。
  • そうすると何もかもが信じられない。
  • ならば、何も存在しないのではないか?
  • しかし、こうして考えている我(=精神=魂)は確かに存在する。
  • たとえ何ものかが我を欺いていて、偽りの世界に我を陥れているとしても、欺かれている我は確かに存在する。
  • 「我思う、故に我在り」だ。

簡単な思考ですが深いです。あらゆることを疑い尽くして「我思う、故に我在り」だからこそ、考える我をもって様々なことを解き明かしていこうという考えです。

これほど哲学をわかりやすく説明した序説は他にはないと思います。

「方法的懐疑」と「懐疑論」(懐疑主義)の違い

よく誤解されやすいのは「方法的懐疑」と「懐疑論」を同じ括りに入れてしまうことです。

「懐疑論」はすべてのものを疑います。真理、「神」すらも疑い、我こそも疑い、「ニヒリズム」(虚無主義)へと堕ちていく考え方です。そうして、精神は退廃し自我を崩壊させていくことになります。

従って、疑って我を見失う「懐疑論」は、疑って我や真理を見出す「方法的懐疑」とはまったく異なります。

「神」の存在証明

有神論者であるデカルトは「我思う、故に我在り」をもって、形而上学(自然や物理など形のないものを考える哲学の部門であり、「神」を含む場合もある)を捉えようと試みます。

そうして「神」の存在を証明しました。

  • 人間は喜怒哀楽、疑ったりもする。
  • 人間は「不完全な存在」であることは明らか。
  • 「不完全な存在」とはなにか?
  • 逆説的に考えて、「完全な存在」がなければ、人間が「不完全という存在」ということもないだろう。
  • しかし、人間はどう考えても「不完全な存在」。
  • 「完全な存在」はあるか? 
  • 「完全な存在」、それは全てを司る「神」であるとしか思えない。
  • やはり「完全な存在」である「神」は存在する。

デカルトは人間の存在は否定しなく、あくまで「我思う、故に我在り」という考え方を念頭にして人間の存在、「神」の存在を証明しています。

これだけではよくわかりません。詭弁にも聞こえます。そこでデカルトは合わせて「理性」を用いて、上記の考えを確かのものとして証明します。

「理性」(自然の光)

「理性」は、哲学において重要なキーワードです。日本語でも「理性を失う」などで用いられることが多くあります。

人間に関する様々な見解は「理性」で片づけられているような気がしますが、いったい「理性」とはなにか。

デカルトの「理性」(自然の光)がわかりやすいでしょう。もちろん「我思う、故に我在り」に従った考え方です。

  • 人間だけが考えることができる。
  • これは何故か?
  • 「神」が人間だけに均しく与えた良識、つまり「理性」(自然の光)があるため。
  • 人間は「理性」を100%使えば、あらゆることを解明できる。
  • それができないのは、まだ人間は「神」の完全さには程遠いからである。
  • 人間は「理性」を正しく駆使しなければならない。

もちろんデカルトは、以上の考え方を導き出す思考実験を繰り返しました。

「方法序説」では、その多くは端折られていますが、そのひとつに、数学者でもあるデカルトは三角形の観念(イデア)を用いてわかりやすく著しています。

哲学では往々にして幾何学が引っ張り出されます。答えがあるからです。それでは満たされない数学者が哲学に傾倒することも多いと感じます。

三角形の観念(イデア)

観念とは揺るぎない真理です。「三角形の内の和は二直角は等しい」ということは、どうやっても不変であるものの幾つもの証明が必要です。

しかし、その証明も考えること、つまり「理性」がないとできません。この「理性」とはどこからやってきたのかを三角形で説明すると……、

  • 人間は「理性」を以って、純粋な知性で「三角形の内の和は二直角は等しい」という真理を証明できた。
  • しかし、初めから完全な真理を有する三角形という物体は存在していた……。
  • 誰が完全な三角形という物体を存在させた?
  • 完全なる「神」しか考えられない。
  • では人間に「理性」を与え、その真理を導き出させのは誰だ? 
  • 「理性」を与えたのも「神」にちがいない。

ただし、「神」が欺瞞していなければですが……デカルトは完全な「神」は人間を欺くはずがないとして、かなり強引に説いています。

「理性」でもって「神」を証明していて、「神」がいるから「理性」があるともしています。

「神」と人間の「理性」どちらが先でしょうか?

「デカルトの循環」

デカルトの哲学は「方法序説」まとめると矛盾点が顕わになってきます。

「このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」⇒「我思う故に、我在り」

1.「わたしの考えるこれらの完全性の観念は、実際にこうした完全性をすべて所有している何ものかによって与えられ、わたしの精神において不完全に分有されているということになる。この完全性を有する存在が、神である。以上のことをわたしは明晰かつ判明に理解する、ゆえに神は存在する」

 

2.「神が存在することによって、わたしの精神が明晰かつ判明に捉えたことが真であるというさきの条件が保証される」

1と2は、どちらが先でしょうか?

互いに切り離せない依存した関係にあり、「卵か先か、鶏が先か」の循環論法です。

これは「デカルトの循環」と呼ばれていて後世の哲学者に指摘され続けています。

すべてが完全ではない哲学

デカルトは「方法的懐疑」により、「神」の存在証明や「理性」を「方法序説」で万人に向けに非常にわかりやすく著しています。「デカルトの循環」もありますが、考え方を学び思考実験するには最適です。

しかし、まだ首を傾げたくなる点もあります。「神」は欺瞞しないと決めつける点、人間だけが考えることができるとしている点などです。前者はいいとして、後者は見過ごせません。

デカルトは、生命の器官や生態系を踏まえて筋を立てた上でですが、動物には「理性」はないととまで言い切っています。

……動物たちの理性が少ないということだけではなく、動物たちには理性がないことを示している。

明らかに「人間だけが考えることができる」って変です。

動物だって考えて行動していますが、デカルトは自然に動かされている機械のようなものと位置づけます。

それでももしかしたら、羊だって像だって、クジラだって考えて、「神」のような存在を意識しているかもしれません。

この時代、そうした学問は進んでいなかったため、あらゆることが人間主体であったのしょうか。

同時期のフランス哲学者であるパスカルも「人間は考える葦である」と説いています。

人間はただ単に伸び育って生息している葦とは違って考えることができるという意味です。

この点も後世の哲学者たちに指摘されていくのが哲学の面白いところでもあります。

それでもデカルトなら「だから人間は不完全であり、『神』が証明されていることになる」と説くかもしれません。

それも哲学です。

「方法序説」は哲学入門書として最適

度々に記しましたがデカルトの「方法序説」は哲学を始める際の最良の一冊です。そんなにも厚い本でもなく、誰にでも読めて理解できるところが深いと感じます。根本的に「考える」、「学ぶ」ということは何かを気づかせてくれます。

ただ、途中で記したとおり、現代ではおかしいなと思える部分もあります。それは様々な学問が発展してきたからでしょう。

哲学は難しくもあり、簡単でもあります。理解できなくてもいいと考えていますが、考え方を理解するのが大切です。

表面だけもっともらしいことばかりを求めても、真理は発見できません。だから考えるのです。そうデカルトも説いています。

「方法序説」の名言

「方法序説」はどれをとっても名言ばかりです。五つだけ挙げます。

「理性はすべての人に備わっており、その用い方さえ正しければ、真理に到達することができる」

「賛成の数が多いといっても何ひとつ価値ある証拠にはならない」

「我思う、故に我在り」

「わたしは反論に応えることによって平穏を乱されたくはない」

「わたしは偉くなりたいとは、少しも思っていない」

続きは「省察」で読む

「方法序説」に続けて読む本として最適なのは、続編ともいえる「省察」です。

「方法序説」で説明されていない詳細部も著されており、精神と物体の「二元論」についても考えることができます。

こちらのコンテンツもご参照いただければと思います。

ぜひ、「省察」も挑戦してみてください。より理解が深まり、哲学が楽しくなってくるでしょう。

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