【哲学】デカルトの千角形、「省察」を要約・解説

魂と身体は別々であるのかどうかの議論はつきません。人間が息絶えて身体の重さが減ったという実証実験もあります。

実際はどうなのでしょうか。

哲学したのちに精神と物体は異なると主張したのは、デカルトです。

デカルトとは、誰なのでしょうか?

方法的懐疑「省察」(せいさつ)~精神と物体の実体「二元論」を読み解く

ルネ・デカルト(René Descartes,1596~1650)、「省察」(Meditationes de prima philosophia,1647)の読み方は「せいさつ」であり、意味は省みて反省、英語ではReflectionです。

同著者、ルネ・デカルトの「方法序説」(Discours de la méthode,1637)から4年後に発表されました。

「方法序説」を詳しく説明した内容ではありますが、新たに精神と物体は異なると言う「二元論」を詳しく説いています。

「方法序説」を理解する

先ずは、哲学の入門書である「方法序説」を読むことが重要です。

「方法序説」の続編が「省察」であるからです。

こちらのコンテンツ(【3分】デカルトの「方法序説」をわかりやすく要約・解説をご参照いただければ理解できます。

「方法序説」から「省察」

「省察」は「方法序説」と同様な考えを著した本文、それに対する他からの反論、「我思う故に我在り」の姿勢を崩さない弁証のような構成で著されています。

基本的な主張は「方法序説」と同様です。「省察」によって、その主張のより深い根拠が述べられていますが、実は非の打ち所が多くあります。「?」と思う箇所は多いです。

そのため「省察」に著してあることすべて正しいと思って読むとえらい目に遭います

「方法序説」にての反論をゴリ押して正当化している節があります。

だからこそ、後世の多くの哲学者に批判されている点も多くあることも前提にして読むといいでしょう。

「省察」の内容

「省察」の内容は以下の通りの順序で説かれています。

  • 第一省察 疑惑を差しはさみうるものについて
  • 第二省察 人間的精神の本性について 精神は物体よりもよりよく知られること
  • 第三省察 神について、神は存在するということ
  • 第四省察 真と偽について
  • 第五省察 物質的な事物の本質について、そして再び神について、神は存在すること
  • 第六省察 物質的事物の存在について、精神と身体との実在的な区別について

「方法的懐疑」の「我主故に我在り」

「方法序説」にて説かれた「方法的懐疑」が改めて説明されています。

前述したとおり、少し言い訳がましいなという態度で読むのがよろしいかと思います。

つまりは、「省察」においての「方法的懐疑」による、「神」の存在証明も「理性」も相変わらず「デカルトの循環」です。

デカルトの「二元論」

しかし、注目したい点があります。

「省察」では、新たに精神と物体は異なるという「(心身)二元論」が説明されています。

人間の魂と物体(身体)は別にあるということです。

それをデカルトは、くどくどと証明していますが、「う~ん」と唸って首を傾げるばかりことばかりです。

精神と物体は別

人間の身体と精神は別だとデカルトは主張しています。

身体さえ疑っている「方法的懐疑」においては、然るべき考え方とも思えます。考えている我こそが精神であり、身体は別ということです。

「二言論」については埋葬が例えとして挙げられます。

日本文化は火葬ですが、諸外国は土葬です。肉体と魂が別と考えているからです。

皆さんはどう考えますか?

「神」と人間の存在

人間の意志とは関係なく影響をもたらすように、音や香りなどは、全て精神の外側に存在していると考えることができます。

これだけでも、人間の外部に物質的な存在があることの証明になります。

そうした事例から、デカルトは全ての事物を主観と客観に分けて観測していきます。

なるほどね!
本当に理解してる?
失礼な! 考えているよ!!

物質の存在証明についても、人間の思考と照らし合わせ四つの段階を踏みながら展開していきます。

第一に想像力との関連において、第二に感覚との関連において、第三に心身の実在的区別との関連において、そして最後には、狭義の物質の存在証明です。

人間の想像力

想像力とは、物体を目の前にあるかのように表象する能力です。

想像することによって、私たちは様々な物体を意識中に出現させることが可能です。

しかし、デカルトは想像する自らと物体は別の次元にあるとしています。

その想像力が自身でからないと仮定した場合、私が私でなくなるかという疑問であり、明らかに、自身の想像力がないとしても、自身が自身であり続けることには違いとしました。

つまりは、精神による想像力のみによって物体が存在するのは危険であります。

「我思う、故に我在り」ということです。

結局、デカルトの「二元論」とは?

そういった思考実験の末、魂と現実、精神と物体、「神」から与えられた精神と「神」がつくりあげた物体の存在は乖離しているというのデカルトの哲学です。

それを「省察」で説いていますが、いまいちわかりづらいです

ただ、「省察」を理解しようとして思考実験するのは大変に面白いです。

想像と純粋知性の相違「デカルトの千角形」

既に結論は記していますが、「省察」で個人的にデカルトの千角形による、物質の存在証明を想像力との関連において、幾何学的な純粋知性を用いて示した例を紹介したいと思います。

以下のような感じで思考実験してみましょう。

引用: Dreieck (A), Viereck oder Quadrat (B), Fünfeck (C), Sechseck (D), Siebeneck (E), Achteck (F), Neuneck (G), Zehneck (H), Elfeck (I), Zwölfeck (L), stumpfwinkliges Dreieck (N) und (m), rechtwinkliges Dreieck (M) und (n), spitzwinkliges Dreieck (O), gleichseitiges Dreieck (P), gleichschenkliges Dreieck (Q), Dreieck mit Seiten unterschiedlicher Länge (R),(public domain)

  • 先生「さて、みなさん、三角形を考えてください。三角形はどんなかな?」
  • Aさん「角が三つです」
  • Bさん「内角の和は180度、つまり二直角」
  • Cさん「正三角形ならば、それぞれの角は60度です」
  • Eさん「二等辺三角形もあります」
  • Dさん「直角三角形というものがあります」
  • Fさん「二等辺直角三角形!」
  • (……以下略)
  • 先生「いま、みなさん、三角形を想像しながら、答えましたね?」
  • 一同「はーい!」
  • 先生「では、次に千角形を考えてください。千角形はどんなかな?」
  • 一同「……」
  • Zさん「はい、角が千あります」
  • 一同「そうだ、角が千だ!」
  • 先生「そうです。角が千あります。みなさんは、千角形を想像することはできますね」
  • 一同「……はい」
  • 先生「みなさんは、三角形のときと同じように、千角形を想像しながら、答えましたね?」
  • 一同「……」
  • Zさん「そうかもしれません」
  • 先生「そういう考え方の習慣ができてしまっているのですよ。みなさんが、想像した千角形は、不完全です。千角形を見たことがないからです。だから想像できないのです。だけど、角が千あると答えることができましたよね? 純粋知性があるからです。千角形も紙に描こうと思えば描けます」
  • 一同「……」
  • 先生「重要なのは、三角形をしっかりと想像して三角形のことを答えた時、千角形をぼんやりと想像して千角形のことを答えた時の心の緊張は異なるのです」
  • 一同「……」
  • Zさん「なんとなく、わかるような気がします」
  • 先生「その違いによって、想像と純粋知性は相違があると言えるのです」

どうですか? 「心の緊張」が吟味できましたか?

幾何学的な物体の存在により、精神の中の想像と純粋知性という相違は感じ取れます。

純粋知性によって想像できる物体は存在する。だから、物体と精神は二元的に存在しているのです。

少し回りくどいですが、数学者らしいですよね。

つまり、極端にすれば、腕や足が切り落とされて「痛い」と精神が感じます。

時間が経って無くなった腕や足の感覚は失われても、「痛い」という感覚は精神に宿り失われません。だから、身体と精神は別なのです。

しかしながら、そういった誤謬(ごびゅう)も過剰な想像が招いた結果であり、おかげでいかに人間が不完全であるかを省みることができました。

個人的な感想ですが、それを省みて考える思考を与えてくれることが「省察」のいわんとすることだと考えています。

いまだに「省察」は読み解けていませんが、デカルトの哲学の深さを知る手がかりが詰まっています。

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